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蔡大鼎の离别诗について

  【要旨】蔡大鼎は现存する作品の数が最も多い琉球汉文学者であり、その作品の多くを诗(汉诗)が占める。彼の诗に关しては、2012年に「再発见」された蔡大鼎の汉诗文集に人との别れを主题とする诗、すなわち「离别诗」が多く含まれていたことは注目に値する。特に咸豊十年(1860)以前に成立した『钦思堂诗文集』では巻一の冒头に离别诗が配置されている。したがって、青壮年期の蔡大鼎が「离别」という主题を重要なものであると考えていたと言えるだろう。

  一般的に离别诗の诗题や本文、自注などには相手の情况や彼等と作者の关系がしばしば记される。蔡大鼎の离别诗でも同様であり、これらは琉球最末期における久米村人士がどのような人物と交流を持ったかを具体的に示す歴史的资料ともなっている。

  一方、蔡大鼎の离别诗は当然のことではあるが、中国の古典诗文を典故としている。さらに文学作品として彼の离别诗を研究する场合、诗型の相违にも注目する必要がある。そして、これらを分析することで、蔡大鼎および琉球王国最末期の汉文学の情况もより详细に明らかになると思われる。

  このように歴史学的観点と文学的観点の両面から、蔡大鼎の离别诗とその意义を考察してみたい。

  【キーワード】蔡大鼎  琉球汉诗  离别诗  送别  留别

  一

  近世期の琉球では、国内外を问わず、人の移动が资料に大量に记録されている。そして、汉诗という文艺がしばしばその移动に伴って生じる离别の情景を美しく饰った。特に、琉球最末期を生き、琉球国内で咏んだ作品が近年多数「再発见」された蔡大鼎は离别を咏った诗、すなわち离别诗を多く遗していることが明らかになっている。

  一般に离别诗には诗题や本文、自注に离别の対象の情况、さらには作者との关系が记される。したがって、琉球最末期の久米村士族である蔡大鼎の场合も、どのような人物と交流を持ったのかがその离别诗に描かれることになる。また、琉球汉诗は中国の古典诗文を规范とするため、蔡大鼎の离别诗はその文学全体および琉球王国最末期の汉文学全般の情况をより详细に知るための贵重な手がかりでもある。本稿ではこのような特征を持つ蔡大鼎の离别诗について具体的に考察してみたい。

  二

  中国古典诗における离别诗は初盛唐期、旅立つものに送る「送别诗」(通常、「送~~」のような诗题を持つ)と作者自身が被送者となる「留别诗」に分化した。したがって、蔡大鼎の离别诗の分析にあたっては、まず蔡大鼎の汉诗文集ごとに该当作品を诗题や内容によってこれら送别诗と留别诗に区分しておきたい。

  『漏刻楼集』は最も早く编纂された蔡大鼎の汉诗文集であり、漏刻官(漏刻御番役)として首里城漏刻门に勤务した道光二十六年(1846)から约一年间の作品を収める。『漏刻楼集』所収の送别诗には「送下库理官向宣亨期满退职有引」がある。その「引」(序と同意)の末尾に「聊为留别」(聊か留别を为す)とあるものの、诗题や同じ「引」中に「今瓜期已满、欣然归里」(今瓜期已に満ち、欣然として里に帰る)という退任·帰郷に关する表现、さらには

  寂寞高楼谁是伴  寂寞たる高楼 谁か是れ伴わん

  屋梁明月一轮寒  屋梁の明月 一轮寒し

  と蔡大鼎が「高楼」すなわち漏刻门に留まることを咏う尾联の诗句によって、この诗は「留别」诗ではなく、送别诗であると考えられる。一方、留别诗には蔡大鼎が漏刻官として久米村の自邸から首里に赴く际に遗した「留别严父」二首と「留别胞弟」四首、そして「留别向先生」二首および漏刻官退任时の「留别下库理官及管官有引」二首が挙げられる。「留别向先生」二首については创作时期がはっきりしないが、「留别下库理官及管官有引」の直前に置かれることから同様に漏刻官退任时の作品だと思われる。

  蔡大鼎はついで『钦思堂诗文集』三巻を编纂した。作品の収録时期は広く、漏刻官就任以前の作品も含まれる一方、咸豊十年(1860)、存留通事としてはじめて福州に赴く少し前の作品も见られる。『钦思堂诗文集』巻一·二はおおむね主题别に作品が配置され、离别诗は巻一冒头に集中する。送别诗には「送王承功游闽山」、「送从堂兄启业游闽山」五首、「送叔父大人赴闽山」、「送毛绩宏游闽山」二首、「送陈元辅之闽山」四首、「送林世元之闽山」、「送毛发荣之闽山」、「送魏公国香为请圣谕事奉命之闽山」、「送郑建功负笈游闽山」二首、「送随封华人鼓陈武三位归国」、「送度佳喇岛道职归国」、「送林世元为异国大夫之太平山」、「送阮文秀为异国通事之八重山」五首、「送王瑞芝为师之太平山」、「送毛大兴游闽山」、「送六兄维颋游闽山」、「送比嘉氏之闽山卽事」、「送友人」、「送别」二首がある。留别诗には「留别」、「留别向公」がある。

  ところで『钦思堂诗文集』巻一所収の「同僚阮文秀期满退文章司」は颔联に「别情」とあり、さらにその「附片」でも「聊尽别离之情」(聊か别离の情を尽くす)と离别の感情を示す。同じく「同僚陈元辅期满退文章司」も首联に「别恨」という语が见える。この二首の诗题にはいずれも「同僚」「文章司」とあり、蔡大鼎の「汉文方」在任期の作品だと判断される。彼等は久米村の士族であり、かつ退任后も久米村に居住する。そのため、蔡大鼎は离别の心情を咏うものの、この二首の七言律诗を「送~~」といった诗题を有する送别诗とすることは困难だったと思われる。

  咸豊十年に那覇を出港した蔡大鼎は翌年に福州に到着し、翌々年の同治元年まで滞在し、この时の汉诗文は『闽山游草』に収録される。『闽山游草』所収の送别诗には福州到着后に帰国する人々に赠った「送林世爵归中山」、「送三叔六弟同归中山」および科挙の礼部试に赴く福州の谢鼎を送る「送谢燮臣夫子应礼部试」、同じくおそらく郷试に赴く郑氏を送る「送郑虞臣夫子应举」四首が挙げられる。留别诗には福州への途上で漂着した石垣岛から出航する际の「留别岛官」二首がある。

  同治六年から翌年、蔡大鼎は再び琉球と福州を往复した。『续闽山游草』はその际の诗を収録する。その「和答丁少村先生送别韵」二首および「和答郑省三先生送别韵」三首は帰国直前、福州の人士の送别诗に対する蔡大鼎の「和答」诗であり、留别诗の一种だとみなせるだろう。

  『北燕游草』は蔡大鼎が朝京都通事として同治十一年(1872)から翌年にかけて福州と北京を往复した际の诗を収録する。蔡大鼎の离别诗は福州出発时の「临行留别」のみが确认される。なお、『北燕游草』の「闽中送行诗」には福州の人士である郑虞臣·郑守曾·翁兆连·艾方午·谢维焜·丁和承および蔡大鼎のおじの陈天福、蔡大鼎の実弟の王大业、その子の王栄光が北京に赴く蔡大鼎に福州で赠った送别诗を载せる。これらに対する答诗が上述の「临行留别」であるか否かは明らかではない。ただ、蔡大鼎が北京に向けて出発する际の离别の场における诗の応酬が大规模なものであったことが窥えよう。

  また、『北燕游草』には「京中送行诗」があり、国士监教习の徐干による七言絶句の「送中山蔡使者入都」四首がある。其四に

  持南来志果诚  节を持し 南より来りて 志 果たして诚なり

  伫看返旆动归程  伫み看る 返旆 帰程に动くを

  とあり、(実际に送别の现场に立ち会ったか否かにかかわらず)北京で帰国する蔡大鼎を见送ることを咏う送别の诗であることがわかる。それに対して、蔡大鼎は「奉和小勿徐夫子大人见元韵赋此鸣谢」四首(『北燕游草』所収)という次韵诗を咏む。その其三に

  临岐远客惭无报  岐に临む远客 报ずる无きを惭づ

  惟有羹墙一片心  惟だ有り 羹墙 一片の心

  と述べることから、诗题に「留别」とは见えないものの、これらの蔡大鼎の连作诗は徐干への留别诗だと考えて良いだろう。

  前述のように蔡大鼎は同治元年に帰国のために福州を出航した后、萨摩(现在の鹿児岛県)に漂着した。この漂着后の汉诗文は、『续闽山游草』·『北燕游草』所収の作品を除き、主に『续钦思堂集』に収録される。その下限は光绪二年(1876)年末に尚泰王の密书を携えて密出国し、翌年に石垣岛に漂着した时期に及ぶ。この『续钦思堂集』もおおむね题材别に作品が配置され、送别诗には日本への使节を送った「送向上卿赴宝岛」二首と「送毛亚卿赴宝岛」、また琉球国内を移动する人物を送る「送丰村向先生简命在番之姑米岛」·「送毛安愼使务完竣归八重山」がある。さらに同治五年の册封正使である赵新が帰国时に遗した留别诗に次韵した「奉和册使赵大人留别原韵恭乞诲正」四首があり、送别诗の一种だと认められよう。

  このように蔡大鼎は少年期から一贯して离别诗を创作していた。さらに自らの汉诗文集の编纂时、それらの离别诗を集中的に配置することもあった。特に『钦思堂诗文集』では离别诗が三卷ある同书の冒头に置かれている。そして、このような事実は蔡大鼎が中国古典诗において离别が重要な主题であることを充分に认识していた结果であると考えられる。

  三

  琉球国内で作られた蔡大鼎の送别诗における被送者の目的地は福州、日本(萨摩など)、先岛、久米岛など多岐にわたる。特に福州(诗题では「闽山」とする)に渡る人物に赠る诗が最も多く、十二人、二十一首に及ぶ。さらにこの二十一首の送别诗は『钦思堂诗文集』に偏在している。

  ところで、これらの诗の诗题は「~~闽山に之くを送る」と「~~闽山に游ぶを送る」に二分される。

  前者の代表例は「送魏公国香为请圣谕事奉命之闽山」だろう。诗题から、この诗が道光二十六年(1846)に都通事として派遣された魏国香を送る作品であると确认される。また「送叔父大人赴闽山」は存留通事として道光二十五年(1845)に福州へと出発した叔祖父の蔡如寿に対する作品であり、「送陈元辅之闽山」四首、「送毛发荣之闽山」、「送林世元之闽山」も各被送者が咸豊二年(1852)、咸豊三年、咸豊四年に存留通事となって派遣された际の诗であると考えられる。したがって、この「送~~之闽山」という诗题は基本的に公务を帯びて福州に渡る人物を蔡大鼎が送る时に用いられると判断される。

  后者については、まず「送六兄维颋游闽山」を确认してみたい。蔡维颋は咸豊元年に「读书习礼」のために那覇を出港している。蔡维颋はいわゆる「勤学人」として福州に渡航したのであり、代作の「寄送在闽维颋六兄启」(『钦思堂诗文集』巻一)でも「负笈游闽」(笈を负い闽に游ぶ)と明示される。毛绩宏も道光二十四年と咸豊元年に「読书习礼」のため福建に赴いている。「送毛绩宏游闽山」其一の首联は

  为精学业扺榕城  学业に精たらんとするが为に榕城に扺らん 

  浩淼烟波万里程  浩淼たる烟波 万里の程

  と毛绩宏は学业の向上のために远く福州に渡ると咏っており、时期は断定できないとはいえ、この连作诗は毛绩宏が勤学人として福州に赴くことを咏っていることになる。毛大兴も咸豊元年に「読书习礼」を目的に福建に赴いており、「寄送在闽毛大兴启」(『钦思堂诗文集』巻一)にも「负笈游闽」と记される。そのため「送毛大兴游闽山」は咸豊元年に勤学人として福州に渡る毛大兴に赠った送别诗だと考えてよいだろう。王承功·蔡启业·郑建功については管见の限り、他の资料に见えないが、蔡大鼎の汉诗文には福州における彼等の学业に关する记述が确认される。蔡启业に关しては「送从堂兄启业游闽山」其一に

  诗书万卷静中求  诗书 万巻 静中に求め

  负笈三山九月秋  笈を三山に负う 九月の秋

  问业明师宜讲贯  业を明师に问えば讲贯に宜しく

  结交頨友快优游  交わりを益友に结べば优游に快し

  とあり、蔡大鼎は蔡启业が福州で良师を求めて学ぶことを期待する。郑建功の场合は诗题に「负笈」と明记される。王承功も既に先行研究が指摘するように「寄送在闽王承功启有诗二首」(『钦思堂诗文集』巻一)に「仁兄负笈赴闽」とあるため、勤学人として学问のために福州に赴いたと思われる。そうだとすれば「送王承功游闽山」も时期の断定はできないが、おそらく学业のために福州に渡る王承功への送别诗であった可能性が高い。つまり、「送~~游闽山」と题する蔡大鼎の送别诗は基本的に「読书习礼」のために福州に「负笈」、すなわち游学する勤学人を送る作品であり、他の蔡大鼎の尺牍とともに琉球王国最末期の勤学人に关系する重要な资料だとみなせよう。

  ところで、蔡大鼎の亲族である蔡启业や蔡如寿、毛氏に属する毛発栄·毛绩宏·毛大兴、蔡大鼎の同学であった王承功、存留通事であった陈元辅·林世元、さらに魏国香·蔡维颋のいずれもが久米村士族であった。したがって、同様に久米村士族の蔡大鼎は福建へと赴いた同郷の士族に频繁に送别诗を赠り、それらの诗を『钦思堂诗文集』に収録していたことになる。この「同郷の士族に送别诗を赠る」という点は『钦思堂诗文集』収録の「送林世元为异国大夫之太平山」、「送阮文秀为异国通事之八重山」五首、「送王瑞芝为师之太平山」も轨を一にしており、林世元のみならず、阮文秀·王瑞芝も久米村の出身である。つまり、これらの诗は、阮文秀がロバートバウン(RobertBowne)号事件の対応のために异国通事として石垣岛に渡ったこと、あるいは王瑞芝が太平山(宫古岛)の「师」すなわち讲谈师匠に任じられたことなど个别の事象を证明すると同时に、青壮年期の蔡大鼎にとって离别の场面で诗を赠る対象が一部の例外を除き、基本的に久米村の士族に限定されていたことをも如実に示している。

  ただし、久米村士族の蔡大鼎が同郷の士族に送别诗を赠ることそれ自体は珍しいことだとはいえない。それでは、蔡大鼎の他の诗文集における作品はどうであろうか。

  『漏刻楼集』所収「留别下库理官及管官有引」の「引」には「余朝夕尝扺其所」(余朝夕に尝て其の所に扺り)とあり、少なくとも漏刻官在任中、蔡大鼎と久米村以外の士族との交流は频繁であったことが窥える。そして、それは久米村以外の士族に赠った「送下库理官向宣亨期满退职有引」、「留别向先生」二首にも反映されていると言えよう。「留别下库理官及管官有引」二首も留别の対象に久米村出身者が全く含まれないとは断言できないが、中心的な存在ではないだろう。一方で、『钦思堂诗文集』所収の久米村以外の琉球士族への“离别诗”は「留别向公」の一首に过ぎない。『漏刻楼集』と『钦思堂诗文集』の间のこの差异は大きいように思われる。

  また、蔡大鼎の壮年以降の作品を収める『续钦思堂集』には福州へわたる琉球士族を见送る送别诗は全くない。「送向上卿赴宝岛」二首と「送丰村向先生简命在番之姑米岛」も久米村士族に赠ったものではない。「送毛安愼使务完竣归八重山」は首联に

  朝贡中山历大洋  中山に朝贡し 大洋を歴

  巨川舟楫载恩光  巨川 舟楫 恩光を载す

  とあり、この毛安慎は诗中に「旧友」とあるとはいえ、おそらく久米村に居住する士族ではないのではないか。つまり、これらの作品も『钦思堂诗文集』所収の作品と情况を大きく异にしているのである。

  さらに『闽山游草』、『续闽山游草』、『北燕游草』には帰国时の留别诗が非常に少ない。特に琉球馆(柔远駅)に留まる琉球士族に遗した留别诗が全くないことは注目されよう。琉球馆には当然、久米村出身者が滞在していた。それにもかかわらず、蔡大鼎が留别诗を遗さなかったことは青壮年期に同郷の人物に频繁に送别诗を赠っていたのと极めて対照的である。

  首里城における漏刻官在任期を除き、青壮年期の蔡大鼎にとって离别诗の対象は、一部の例外を除き、おおむね久米村士族に限定され、それも福州への渡航を见送る作品が大半を占めていた。それに対し、『闽山游草』以降は久米村士族に対する离别诗がほとんどなくなる。このような顕着な差异は単なる偶然の产物ではなく、蔡大鼎という一人の久米村士族の生涯における人间关系の変化の一端を反映していると考えられる。すなわち、蔡大鼎は琉球国内で升进を重ね、それに伴い、その离别诗の対象や创作の场も変化していったのではなかろうか。

  四

  蔡大鼎は离别诗を创作する际にどのような诗型を选択したのだろうか。

  蔡大鼎の离别诗における七言律诗には「送下库理官向宣亨期满退职有引」、「留别严父」二首、「留别下库理官及管官有引」二首、「送王承功游闽山」、「送从堂兄启业游闽山」五首、「送毛绩宏游闽山」二首、「送林世元之闽山」、「送魏公国香为请圣谕事奉命之闽山」、「送度佳喇岛道职归国」、「送林世元为异国大夫之太平山」、「送王瑞芝为师之太平山」、「留别向公」、「送谢燮臣夫子应礼部试」、「送向上卿赴宝岛」二首、「送毛亚卿赴宝岛」、「送毛安愼使务完竣归八重山」がある。

  五言律诗はいずれも『钦思堂诗文集』に「送叔父大人赴闽山」、「送毛发荣之闽山」、「送随封华人鼓陈武三位归国」が収録される。

  七言絶句には「留别胞弟」四首、「留别向先生」、「送陈元辅之闽山」四首、「送郑建功负笈游闽山」二首、「送阮文秀为异国通事之八重山」五首、「送毛大兴游闽山」、「送六兄维颋游闽山」、「送比嘉氏之闽山卽事」、「送友人」、「送别」二首、「留别」、「送林世爵归中山」、「送   三叔六弟同归中山」、「留别岛官」二首、「临行留别」がある。

  五言絶句には『闽山游草』に「送郑虞臣夫子应举」四首が収められる。

  その他、七言古诗に「送丰村向先生简命在番之姑米岛」がある。

  まず、絶句による作品について考えたい。なお、七言絶句の「送陈元辅之闽山」四首および五言絶句「送郑虞臣夫子应举」四首は前の诗の结句が次の诗の起句にそのまま用いられる蝉联体の诗であり、游戏的性格の强い作品、少なくとも他の絶句とは异なる性格を持つ作品だと考えられる。

  それでは、その他の七言絶句はどのような特征を有するのだろうか。

  第一に留别诗の比率が高いことが挙げられる。一般に、多くの人物に见送られ、ただ一人行旅に赴く诗人が遗すという留别诗には离别の「真情のこもった作品」が多い。それゆえ、蔡大鼎も留别诗には七言絶句という诗型こそふさわしいと考えたのであろう。そして、离别の対象を明示しない「送友人」、「送别」二首がやはり七言絶句という诗型を采用するのも同じ理由によると思われる。相手の名称を记さないことは被送者および诗人自身の情况の舍象を意味しており、その结果、より纯粋な离别の心情が咏われることになる。たとえば「送别」其一には

  覇岸聊停一叶舟  覇岸 聊か停む 一叶の舟

  相酬玉盏思悠悠  相い玉盏を酬いて 思い悠悠

  多情夜月终宵好  多情の夜月 终宵好く

  直送行人到福州  直ちに行人を送りて福州に到らしめん

  とあり、诗人は自らの心情を「思悠悠」と直截的に咏い、また月に托す形で「多情」ともいう。 

  第二の特征は即兴性の高い诗が见られることである。「送比嘉氏之闽山卽事」が「卽事」と诗题に即兴であることを明记するのはそれを端的に示している。しかし、重要なことは実际に即兴で作られたか否かではなく、律诗のように対句を必须としない絶句という诗型を用いることで即兴の作であるかのように読者に思わせることにあると考えられる。たとえば阮文秀はロバートバウン号事件対応のための急使である以上、「送阮文秀为异国通事之八重山」五首には急使を送るのにふさわしい诗型が必要だったのではないか。また「送林世爵归中山」、「送三叔六弟同归中山」、「留别岛官」二首、「临行留别」といった赴任地もしくは行旅の途上における离别诗に七言絶句が多いのも、蔡大鼎が実际に急遽创作したか、あるいはあえてそのように见せようとしたためではないかと思われる。

  一方、律诗の形式で咏われる蔡大鼎の离别诗については公务を帯びて派遣される人物に赠った作品が多いことが指摘できるだろう。たとえば七言律诗の「送林世元之闽山」の首联では

  文章山斗胜羣贤  文章 山斗 群贤に胜り

  简命行闽九月天  简命され 闽に行く 九月の天

  とあり、「送魏公国香为请圣谕事奉命之闽山」の首联も

  劳王事仰名贤  王事に勤労して名贤と仰がれ

  欲赴闽山九月天  闽山に赴かんと欲す 九月の天

  という。「送林世元为异国大夫之太平山」の首联も

  劳王事赴珠方  王事に勤労して珠方に赴かんとし

  不觉东风道路长  覚えず 东风に道路长きを

  と、ほぼ类似した表现を用いて、被送者が王命を受けて目的地に向かうことが记述される。「送向上卿赴宝岛」其二の颈联も萨摩への使者の派遣を「王事」と表现し、

  王事由来成鞅掌  王事 由来 鞅掌と成り

  儒臣自古载星轺  儒臣 古より 星轺に载る

  という。「送叔父大人赴闽山」の首联でも

  为有君王命  君王の命有るが为に

  乘风破浪前  风に乗る 破浪の前

  と王命による旅であると明示する。「送毛安愼使务完竣归八重山」の毛安慎は王命による使者ではないが、诗中に八重山から「中山」に「朝贡」すると表现されており、国王への使者であることを意识させる。そして、王命を受けた、あるいはそれに类似する使节への送别诗には正统·典雅な表现感覚を持つ五言律诗あるいは壮丽·典丽な表现感覚を持つ七言律诗が适切な诗型である。おそらく、蔡大鼎はこのような中国古典诗(汉诗)の各诗型が持つ表现感覚をおそらく経験的に理解していたと考えられる。

  同様のことは他の作品にもあてはまるのではないか。蔡大鼎が漏刻官として首里城に登城する际に作られた「留别严父」二首が同时の作である七言絶句「留别胞弟」四首とは异なり、七言律诗という诗型を选択したのは父を孝の対象とする儒教的道徳観に従い、その父との别れを典丽に表现するためであっただろう。「送随封华人鼓陈武三位归国」と「送度佳喇岛道职归国」が律诗であるのも清朝や萨摩を意识したからであると思われる。「送下库理官向宣亨期满退职有引」と「留别下库理官及管官有引」二首の场合は首里城に勤める「下库理官」に対する作品である。「送谢燮臣夫子应礼部试」は“夫子”と呼ぶ谢鼎が礼部试受験のために北京へ赴くのを见送る诗であり、さらに尾联では

  自今预卜鳌头占  自今 预め卜す 鳌头の占

  浩荡恩波沐宴荣  浩荡たる恩波 宴栄に沐す

  と、谢鼎が及第后に皇帝の恩宠を受けることへの期待を述べる。これらの作品はいずれも世代や身分等が蔡大鼎より上位にある人物、少なくとも蔡大鼎がそう判断した人物に赠ったものである。つまり、蔡大鼎は彼等の地位にふさわしい诗型をあえて选択して、离别诗を咏ったと考えられる。

  それでは、王命による赴任を明记する「送丰村向先生简命在番之姑米岛」がなぜ七言古诗なのだろうか。この诗において蔡大鼎は毎句韵の手法を用いている。蔡大鼎の创作した毎句韵の七言古诗には「戊辰冬至朝贺歌」、「丙寅元旦朝贺歌」、「寄贺桃冈夫子举太学歌」(以上『続钦思堂集』)、「南风之薫兮歌」(『圣览诗文稿』)といった国王や明治政府に「太学」に推挙された萨摩の八田知纪を祝福する作品が含まれる。このことを踏まえれば、「送丰村向先生简命在番之姑米岛」でも「简命」、すなわち王命を受けた赴任を特别に强调するために意识的に七言古诗という诗型が用いられたと考えられる。実际、その冒头は

  皇皇圣王命豪雄  皇皇たる圣王 豪雄に命じ

  往来稳渡海西东  往来 穏やかに渡らしむ 海の西东

  と王命による赴任であることを强调する。

  ここで、勤学人を赠った诗の诗型について考える必要があろう。既に确认したように、勤学人を送る送别诗に律诗と絶句が混在している。それはなぜだろうか。前述したように、蔡大鼎の诗型の表现感覚に対する认识はおそらくそれまでの読书経験や学习に基づくものであった。それゆえ、徐々に形成されていったのだろう。たとえば、离别诗に限らず、七言古诗が青壮年期の作品を収録した『钦思堂诗文集』や『漏刻楼集』には见られず、その后の『续钦思堂集』や『圣览诗文稿』などに见えるのはそれを端的に反映している。さらに蔡大鼎は诗歌に关してしばしば误った知识を持つことさえあった。そうだとすれば、勤学人という立场にある者を见送る场合にどのような诗型がふさわしいか、青壮年期の蔡大鼎は当时、明确には判断できなかったのではなかろうか。しかし、その场合でも七言絶句を用いることがある、すなわち离别の感情を诗にこめようとすること自体、青壮年期の蔡大鼎が中国古典诗の各诗型の持つ表现感覚の存在を一定程度、认识していたことを示唆していよう。

  このように蔡大鼎の离别诗の诗型を分析すると、蔡大鼎はおおむね律诗(および古诗)と絶句の表现感覚を経験的に理解し、意図的に使い分けていたと考えられる。そして、それは琉球王国最末期の汉文学者において中国古典诗の各诗型が持つ表现感覚が一定程度理解されていたことの反映でもあると言えよう。

  五

  本稿の考察结果は以下のようにまとめられるだろう。

  琉球王国最末期の汉文学者である蔡大鼎は一贯して离别诗を创作し、さらには自らの汉诗文集の编纂にあたって离别を主题とする诗をまとめて配置することもあった。しかし、その创作の情况には差异が见られる。青壮年期における离别诗の対象は、一部の例外を除き、基本的に久米村士族に限られ、それも福州に赴く人物が大半を占めていた。それに対し、『闽山游草』以降は久米村士族への离别诗をほとんど作らなくなる。さらに蔡大鼎は各诗型の持つ表现感覚を経験的に理解した上で、これらの离别诗の创作にあたっては基本的には诗型を意図的に使い分けていたことも明らかになった。そして、これらの底流に中国古典诗において离别が重要な主题であることに対する蔡大鼎、ひいては琉球最末期の汉文学者全般の确かな认识があったと考えられる。

  蔡大鼎の离别诗については、蔡大鼎が规范とした中国古典诗の离别诗との关系、典故の使用情况、琉球汉文学史全体における离别诗の位置づけなど、重要な问题が遗されている。これらは稿を改めて论じることとしたい。

  论蔡大鼎的离别诗

  绀野达也

  【摘要】近世琉球之国际交往与国内交流之大量记録载于各种文献。当时,进行交往、交流之际,有些人经常以中国古典诗歌(汉诗)来描写“离别”之情景。

  如果要对琉球汉诗中所表现之“离别”进行研究,我们不得不提到蔡大鼎。他是现存作品最多的琉球汉文学者,大部分作品是汉诗。关于他的诗歌,值得注意的是以“离别”为主题的诗歌,即“离别诗”大量存在于2012年被重新发现的蔡大鼎之别集中。而且,对于咸丰十年(1860)以前成立的《钦思堂诗文集》来说,他的离别诗置于卷一开头的部分。我们可以说蔡大鼎特别重视这个离别的主题。

  我们先用蔡大鼎的诗文集来确认其离别诗的情况,再按照唐代以后的诗歌情况分为送别诗与留别诗。然后,我们从史学方面与文学方面探讨蔡大鼎离别诗及其意义。

  一般地来说,离别诗的诗题、本文及自注往往说明着对方情况或者对方与作者之关系等。蔡大鼎的离别诗亦不属于例外。例如,蔡大鼎吟诵21首送别诗,赠送给12位渡海赴福州之人士,这些诗歌载于《钦思堂诗文集》卷一,被送者都是久米村士族。但是,我们却能指出,《闽山游草》而后,蔡大鼎基本上对久米村士族不吟诵离别诗。因此,他的离别诗具体地表示着琉球王国最晚期的久米村人士族之交往及其变迁,此亦是贵重的历史资料。

  从文学的角度来说,蔡大鼎一直模仿、学习中国古代诗文,他的离别诗沿袭中国古典诗歌的传统。设若我们要对作为文学作品的蔡大鼎离别诗进行研究的话,还应该注意到其诗体之不同。比如说,蔡大鼎吟诵留别诗之际,基本上选择七言絶句;如果蔡大鼎离别诗涉及到琉球国王的王命等之时,经常采用七言律诗或者五言律诗。因此,我们可以作如下理解,蔡大鼎基本上据读书的经验、学习瞭解中国古典诗歌(汉诗)之各类诗体所有的艺术表现感觉,当创作离别诗之际,就能选择最适诗体。而且,可以说,如此情况,表现了琉球王国最晚期的汉文学者在一定程度上瞭解中国古典诗歌之各类诗体所有的艺术表现感觉。

  【关键词】蔡大鼎  琉球汉诗  离别诗  送别  留别
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